二度漬け禁止

主に趣味の話(たぶん8割アイドル)のブログです。

そのバットをふるうな。

またか、と思う。
会ったことのない女の子が傷つけられて、世の関心をさらう。
待ちに待った自身のライブ直前に、身体の20ヶ所も刺されて。
彼女のブログをみると、大学生として授業をこなす傍ら、舞台やステージで歌うことを楽しみにしている様子が伝わってくる。「次へ」を押す気になれずにブラウザを閉じる。


同業者がやりきれなさと怒りのこもったツイートをする。
それらのツイートに対してすぐにいろんな言葉が投げかけられる。


「勘違いさせるような商売してる方も悪い」
「性欲と恋愛感情抜きでアイドルなんて成り立たないだろ」
「秋元康とAKBが元凶」
「ドルヲタなんてキチガイ」


一連のレスポンスを見ながら、なんだか絶望的な気持ちになる。


こういう痛ましい事件が起こった時、私はいつもある小説を思い出す。
舞城王太郎の「バット男」という話。(単行本「熊の場所」に収録)


主人公の「僕」が住む調布には「バット男」と呼ばれる不審者が出没する。
みすぼらしくて弱々しいバット男は、バットを片手に街の人々を威嚇するが、いつもやり返されて地元の学生たちにボコボコにされていた。


主人公の「僕」の同級生である大賀は唐突に「学校を辞める」と言う。理由を聞いてみると、恋人である梶原亜紗子が妊娠したので結婚するというのだ。
梶原と大賀は互いに愛し合っているが、そのことをうまく伝えたり自覚することができない。梶原は大賀との3人生活の中で、生まれた子供を虐待するようになる。

弱い方へ弱い方へ 、ストレスの捌け口は見出されていくんだ 。弱い方へ弱い方へ 、不幸は流れ込んでいくんだ 。


この時期の舞城王太郎作品にはバイオレンスな空気と物哀しさが充満していて、読んだ後になんとも言えない気持ちになる。

バット男はどこからどんな風にやってくるのか判らない 。自分より弱い奴をバットで殴るために 。

僕はだから 、どんなバット男にも負けないように強くならなくてはならない 。誰にも殴られないように 、自分を鍛えなくてはならない 。

負けたら下手すれば 、自分がバット男になってしまうのかも知れないのだから 。どこかで表面がぼこぼこのバットを拾って手にして 、自分より弱い奴を探して殴ろうとしないとも限らないのだから 。


血塗られたバット男のバットは行方不明になったままで物語は終わる。
「僕」は、どこかにいってしまったバットやバット男の影に怯えながら、こう考える。

ある晩僕は、妻の隣で目を覚ます。何か嫌な夢を見て、僕の胸がドキドキしている。夢の内容は覚えていないが、それが何かの暴力を含んでいたことは何となく感じられる。誰かを殴っていたにせよ、誰かに殴られていたにせよ、そこには暴力の匂いが重くとぐろを巻いている。バットを求める気配がある。自分の手足の中に。自分の頭の中に。自分の胸の中に。自分の腹の中に。自分の吐く息の中に。真っ暗闇の中で僕は胸の上で手を合わせる。

「どうか僕をバット男にしないで下さい」「皆に殴られて泣かされて遊ばれるような奴にしないで下さい」「どこかの暗い公園で一人ぼっちで泣いてるんだか笑ってるんだか判らない変な声をあげさせないで下さい」「どうか」「どうか」

でもどんなに祈っても、そこに神の存在は感じられず、僕の祈りが届けられたとは思えない。


私はアイドルとライブが大好きだから、血塗られたバットを大好きな場所に持ち込ませたくない。それだけだ。
そのためにどうすればいいのかは、演者本人だけでなく、大人たちと「本当の」ファンが考えていくしかない。